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かぎもとやの由来歴史

かぎもとやの歴史

 「蕎麦の花、浅間の裾の雪」

古川柳に見られるように、浅間山麗一帯も蕎麦の原産地として知られている。
 拠って、この鍵本屋は、蕎麦の原産地として又、宿場としての環境に恵まれた沓掛に、明治三年、現在と同じ場所に開業した。これは、軽井沢町役場に現存されている当時の飲食店登録証に見ることが出来る。が、実際はそれより古く、文政の古文書に見る如く、街道を行く人、浅間登山の人々を相手に宿屋を営むと同時にわらじ、杖、それに加えて蕎麦、餅、うどんを売っていた。当時は、蕎麦よりもむしろうどんが主力であったらしく、現存でも鍵本屋を呼ぶに「うどんやさん」と言う年寄りが居るとのこと。

 尚、鍵本の名は、本陣の鍵を預かっていたことから由来し、如何に、お上に信用があったかが伺われる。軽井沢、沓掛、追分の三大宿場の中点にあって、当時の繁栄ぶりが想像できるが、極寒の二月ともなると、人通りも少なく、細々と蕎麦のみに生きてきた人々が忍ばれるのである。

文政十二年「商家高名鑑」より追分陣屋に現存


かぎもとやを愛する人々

 正月に、一通の手紙が鍵本屋に舞込んだ。秩父宮の侍従の人からである。毎年、宮家の年越し蕎麦として、鍵本屋は大晦日に、東京赤坂の邸迄、届けている。が、或る年の暮れ、佐藤首相宅へ届けるのに手間取って、東京へ運ぶのが、数時間遅れ、ついに楽しみにしていた鍵本屋の年越し蕎麦は、時間までに、宮家の門を潜らなかった。今後は、もっと、時間を厳守せよとの軽井沢県人である侍従からの叱りの手紙であった。
 鍵本屋の店は、そんなに立派な構えとは言えないが、一歩中へ踏み入れた時、立ち籠もっている香が、本当の蕎麦の香であることを知る。蕎麦が運ばれて来る間、回りの壁を眺めるとよい。内外有名人の写真や色紙が、待つ人の目を楽しませて呉れる。


今は亡き、吉川英治氏の写真等懐かしい。
 今回、取材にあたって、奥に仕舞ってある多くの記録を見せてもらったが、こんなにも多くの人々に愛されつつ今日の至っている店は他にあろうかと思う程である。有名人ばかりでなく、少なくとも、筆者の知る「軽井沢を愛する人」は、皆、鍵本屋の蕎麦をも愛していると言っても過言ではなく、又、若主人に一度会ったことのある人、更に精魂込めて蕎麦を打ってる姿を見たことのある人は、きっと、鍵本屋の蕎麦の虜になるに違いない。
蕎麦がどうしても食べられない人も鍵本屋へ来る。その人達のためにうどんも用意してあるが、何度か通ってうどんを食べているうちに何時の間にか蕎麦通になっている人が多いのも面白い。


蕎麦の美味い食べ方

食べ方に流儀は無い、然し忘れてはならない事は、飽く迄も蕎麦が主であって、つゆが従であること、即ち、つゆをたっぷりつけ過ぎぬ事が大切である。蕎麦が食べたや故に、図七の如く、箸で持ち上げると、器にたっぷり漬かってしまう。図八の如く箸で摘んだ部分を、一寸、つゆにつけ啜ると美味い。尚、長過ぎる場合は、器の後ろにあてた指で蕎麦を切るのが、作法だそうだ。図九、ツルツルと涼味をも味わいたい。